オオヌマユウ Book Review ④
「スヴィドリガイロフ
  ──ドフトエフスキー『罪と罰』(北垣信行訳、講談社)──
 

 「われわれはつねに、永遠というものは、なにか不可解な観念、なにかとてつもなく大きなものだと想像していますね! しかし、どうして必ず巨大なものでなければならないんでしょう? ところで、そんなものじゃなくて、そこには田舎のすすけた湯殿みたいな小さな部屋しかなくて、その隅々には蜘蛛がいる、これが永遠というものだ、とこう想像してみてごらんなさい。私はね、ときたまそういったようなものが目の前に浮かぶことがあるんですよ」[1]
                                     (『罪と罰』第4編1章)

 例えば、ミドルトン・マリがその著書『ドストエフスキー』において「スヴィドリガイロフこそ、この書物の真の主人公なのである」[2] と述べ、「われわれは是が非でもスヴィドリガイロフを理解しなければならないのだ」[3] と考えるように、『罪と罰』を読もうとする者はおのずと『スヴィドリガイロフとは何者なのか』という問題に向き合わざるを得ない。好色な田舎地主として登場し、アメリカへ行くと嘯きながら拳銃で自身の頭を撃ち抜くことで退場していく五十がらみのこの奇妙な男の存在は一つの問いである。
 彼はラスコーリニコフが非難するように遊惰で放縦な人間ではあるが、我々は彼を『白痴』におけるイヴォルギン将軍や『悪霊』におけるレビャートキン、そして『カラマーゾフ兄弟』におけるフョードル・カラマーゾフといった元軍人の道化者の系譜のうちにおいてのみ捉えるわけにはいかないだろう。これら道化たちは作中において悲劇的な最期を遂げるが、スヴィドリガイロフもその例外ではない。しかしながら彼のその最後は決して他の道化たちの辿ることのない自殺という旅立ちであった。上に挙げた作品の中で自殺した主要な登場人物としては、その死が限りなく自殺に近い他殺であった『白痴』におけるナスターシャ・フィリポブナを除けば『悪霊』のキリーロフやスタヴローギン、『カラマーゾフ兄弟』におけるスメルジャコーフなどが挙げられるが、彼らはいずれも道化とは対極に位置する理知的な青年であったと同時に、自身の手で自らの生の虚無に終止符を打った絶望家たちであった。スヴィドリガイロフのニヒリズムもまた、マルメラードフ(『罪と罰』ソーニャの父でアル中。馬に踏みつぶされて死ぬ)ようにアルコールを浴びながら自身の死が来るまでの生をやり過ごそうとするような自棄的な諦観とは異なるものである。フョードル(『カラマーゾフ兄弟』)やマルメラードフらが大酒のみであるのとは異なり、常に醒めていなければならないスヴィドリガイロフはラスコーリニコフが言うようなただの「甲羅に苔のはえた遊び人」[4] ではなかったのである。
 一方で、彼がそのような理知的な青年たちの系譜のうちにいるものではないことも明らかである。スタヴローギン(『悪霊』)やイワン(『カラマーゾフ兄弟』)は悪霊や悪魔を見るが、スヴィドリガイロフが見るものは幽霊であった。彼はグロテスクな自己の内奥を直視できないがゆえに自身の鏡像としての悪霊や悪魔を要請するスタヴローギンやイワンと同じ地平に立ってはいない。スタヴローギンが悪霊の存在を信じる一方で、イワンは悪魔の実在を認めようとしないが、その悪魔が実は自身の内にいるということをこの上なく知っていた。自身の悪魔を閉じ込めている頼りない理性の薄い皮膜を一枚めくることはイワンにとってはまさに気が違うほどの大問題であったが、スヴィドリガイロフは、はじめからその皮膜がめくれた状態でラスコーリニコフの前に立つのである。彼は自身の内の悪魔の実在を知り、その悪魔としての彼もまた一個のスヴィドリガイロフというただの孤独な人間に過ぎないということをこれ以上ないほどに知っていたのである。
 スヴィドリガイロフは、ラスコーリニコフの妹ドゥーニャに言い寄る破廉恥な男であり、またドゥーニャの婚約者ルージンの語るところによれば子供に「むごい辱め」を行い、下男を死に追いやるまでの「虐待」や「懲罰」を加え、さらには自身の妻までも毒殺したと疑われるような悪魔的な人物であるが、[5]  一方でドゥーニャや退職官吏の娘である幼い許嫁、そしてマルメラードフの遺児のために大金を惜しげもなく差し出そうとし、また実際に差し出すことも平気でやってのける人物である。このような彼の行動は「見かけのあらゆる矛盾にもかかわらず、われわれは彼が自己自身において分裂していないで一だということを感じる」[6] とマリが指摘するように、一個のスヴィドリガイロフという人間像を読者に不気味なほどはっきりと印象付ける。このような彼の性格には、「あらゆる矛盾を同時に包含することができ、二つの深淵を、われわれの上なる最高の理想の深淵と、われわれの下なる、最低の悪臭ふんぷんたる堕落の深淵を同時に見ることができる」[7] というカラマーゾフ家の気質の源流を見ることもできよう。カラマーゾフ一家の中で一見対極ともいえるフョードルとイワンがその精神においては一番近いところにいるように、[8] スヴィドリガイロフの見かけの上での性格の複雑さや二面性は、スヴィドリガイロフという一つの精神に帰結するものである。彼はカラマーゾフ一家の問題をたった一人で背負い込んでいた孤独な絶望家ではなかったか。
 イワンがそうであったように、真に自身を知ろうとする時に世界との断絶が始まる。スヴィドリガイロフもまた世界に居ながらにして世界に居場所を持てない人間であった。「ちょっとでも病気になって、肉体組織のノーマルな現世的秩序が破れると、たちまち別世界の可能性が現れだして、病的になればなるほど、別世界との接触面も多くなり、こうして、人間が完全に死んだときには、そのまま別世界に移行してしまう」[9] と彼は考える。現世と同じ地平に死後の世界を見るこの男にとっての死は、まだ見ぬ外国へ旅に出るようなものであった。彼の言う「アメリカ」が「田舎のすすけた湯殿」でしかないと知りながら銃口と脳漿との距離において旅立つこの男にとって、現世とあの世との距離はさほど隔たったものではない。「幽霊は病人にしか現われないということには私も賛成ですよ」[10] とラスコーリニコフに語りかける彼自身、その登場の時から半ば幽界に片足を踏み入れた存在として病人ラスコーリニコフの前に立ち現れているのである。
 だからこそ彼は好色漢であっても、そこにフョードルのようなエゴイスティックな側面は見られない。幽界を覗くスヴィドリガイロフにとっては、金や自身の命でさえも執着するようなものではないのである。それでも彼を此岸に繋ぎ止めていたわずかな生への希望が断ち切られたとき、つまり彼が借家の一室でドゥーニャを解放したときに実質的に彼の生は終わりを迎える。「それに……愛せないというのかね? ……絶対に?」[11] という滑稽なまでに悲壮な言葉が、事実上、世界における彼の最後の言葉であった。スヴィドリガイロフの顔が「奇妙な微笑みに、みじめな、悲しそうな、弱々しい微笑みに、絶望の微笑みにゆがんだ」[12] その時から、彼の目はもはや現世にその焦点を持たなくなり、彼岸へと引きずられるように、拳銃を手に取り自身の部屋を後にするのである。
 スヴィドリガイロフはドゥーニャや退職官吏の娘で自身の幼い許嫁などの少女たちに惹かれる男であったが、彼が最期の日に見た夢に出てきたものも、やはり幼い少女であった。彼はこの夢の中の「五つやそこらの少女」の「肉を売る娼婦の臆面もない顔」に「ぞうっとして」目を覚ますことになるが、[13] スヴィドリガイロフがこの夢の少女に抱いた恐怖ともいえる嫌悪感は、「少女はいきなり両手で私の首にしがみつくと、不意に自分のほうから激しい接吻をはじめたのである。彼女の顔には完全に歓喜の情があらわれていた。……こんな幼いものがと思い、不意に私が感じた憐みの気持ちから、私は不快でならなくなったのである」[14] というスタヴローギンが凌辱を加えた少女に対して抱いた不快感とさほど異なったものではないだろう。少女に聖性を見るスヴィドリガイロフにとって、聖なるドゥーニャからの救済は彼にとっての最後の叶わぬ望みであった。決して救済されることがないということを知っていながら、その救済の非実現性を確認し終えた彼には、もはや夢想に値する救いもなく、夢の中の幼い少女のうちに自身と同じ情欲の穢れが見いだされた時、彼は最後の朝に目覚めるのである。
 「自分をだれよりもうまくだませる者がだれよりも愉快に暮らせるものなんですよ」[15] と述べるこの孤独な中年男は、結局のところ自分をだましきることができるほど道化でも悪人でもなかった。彼は自身の弱さを知り、決して自分一人で立つことができないことを知っていたのである。[16] ラスコーリニコフと初めて出会った時、彼は来世としての「永遠」について、「われわれはつねに、永遠というものは、なにか不可解な観念、なにかとてつもなく大きなものだと想像していますね! しかし、どうして必ず巨大なものでなければならないんでしょう? ところで、そんなものじゃなくて、そこには田舎のすすけた湯殿みたいな小さな部屋しかなくて、その隅々には蜘蛛がいる、これが永遠というものだ、とこう想像してみてごらんなさい。」[17] と語りかける。「もしかしたらこれこそまともなものであるかもしれないでしょう、それに、いいですか、私はむりにでもそういうことにしてしまいたいくらいなんですよ!」[18] という言葉は、ラスコーリニコフには与太に聞こえても、まさしく彼の本音であった。このスヴィドリガイロフというカラマーゾフ的気質の孤独な男こそ、「アメリカ」という「田舎のすすけた湯殿」に旅立った一匹の蜘蛛であったのである。


 以下、余談であるが、私の手元にある本書(『罪と罰』講談社、世界文学全集13巻;豪華版収録、1976)冒頭の登場人物紹介欄において、スヴィドリガイロフの人物像は次のように説明されている。
 「スヴィドリガイロフ──我欲をとげるために平然と罪を犯すが、また慈善心もある、複雑な性格の地主」
 先のマリのスヴィドリガイロフの性格についての評といい、しばしば彼について語られるときに「複雑」や「矛盾」といった言葉が使われるが、罪を犯す一方で慈善心を持ち合わせているという点はラスコーリニコフも同様であり、彼もまた複雑で矛盾した性格の持ち主であることは疑い得ない(例えば、スヴィドリガイロフはラスコーリニコフに対し、「われわれの間にはどこか共通点がある」(同書p280)と話し、ラスコーリニコフの友人であるラズーミヒンは彼を「気むずかしくて、陰気で、傲慢で、気位の高い男」であり「内部で二つの正反対の性格が交互に入れかわっているような感じ」(同書p208)と述べている)。
 ただ、両者の決定的な違いは、ラスコーリニコフにはソーニャという聖女による救済が用意されており、スヴィドリガイロフにはそれがなかったということである。
 また、言うまでもないが、このような「複雑さ」や「矛盾」は、何も彼らやカラマーゾフ家の問題だけではなく、まして作者個人や、文学上の問題だけでもない。
 もし我々自身が「自分をだれよりもうまくだま」し「だれよりも愉快に暮ら」すことをやめてなお生きられるとしたら──。もっとも、作者の用意する答えは信仰か破滅であるが。



〈引用・注解〉
[1] ドストエフスキイ『罪と罰』(北垣信行訳・講談社「世界文学全集13 ; 豪華版」収録、1976)p283。
[2] J・ミドルトン・マリ『ドストエフスキー』(山室静訳・泰流社、1977)p.91。
[3] 同書p95。
[4] 1前掲書p479。
[5] スヴィドリガイロフの嫌疑については同書p291-292を参照。
[6] 2前掲書p 94。
[7] ドストエフスキイ『カラマーゾフ兄弟』(北垣信行訳・講談社「世界文学全集15 ; 豪華版」収録、1976)p418。
[8] 同書p336におけるイワンに対するスメルジャコーフの台詞を参照。「あなたはフョードルの旦那と一番似ていらっしゃる……精神は同じです」
[9] 1前掲書p282。
[10] 同書p282。
[11] 同書p495。
[12] 同書p495。
[13] 同書p507を参照。
[14] ドストエフスキー『悪霊』(江川卓訳・新潮社「ドストエフスキー全集12」収録、1979) p303。なお、ここはいわゆる「スタヴローギンの告白」の章にあたる。
[15] 1前掲書p477。
[16] このことは、例えばドゥーニャに対して「おそらく、おれも彼女にならどうにかたたき直してもらえたんだろうがな……」(同書p503)と未練がましく独り言ちる様からも明らかである。スヴィドリガイロフは自身の弱さを知るというこの点において、傲慢で病的な自尊心を抱えるラスコーリニコフとは決定的に異なる。
[17] 1前掲書p283。本稿冒頭の引用に同じ。
[18] 同書.p 283。
目次>>​​​​​​​
オオヌマユウ(おおぬまゆう)

1987年、山口県出身。

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