玉城入野 映画の地層 ⑩
共苦は誰が──増村保造『大地の子守歌』
  
 増村保造(1924年-1986年)に、『大地の子守歌』(1976年)という映画がある(原作は素九鬼子)。主演は原田美枝子。当時17~18歳ほどの彼女は、110分ほどの劇中、ほぼ出ずっぱりで、全身で体当たりするように主人公の少女「おりん」を演じ切っている。

 私は、30年ほど前に、テレビの深夜放送で、一度だけこの作品を見ている。おそらく酔っぱらって見ていたのだろう、筋書きはほとんど覚えていない。だが、原田美枝子の演技が凄まじかったということだけは、酩酊した意識の底に、強く刻みつけられていた。

 昨年(2022年)になって、私はこの作品を、今度はちゃんとシラフで見直した。すると、原田美枝子の芝居が、一層強烈に迫ってきた。苛酷な状況に抗い、必死にもがき、傷だらけになって生きる「おりん」の姿―その激しさは、画面を突き破って、見ている私にまで殴りかかってきそうな勢いなのだ―には、ただただ圧倒されるばかりだった。

 昭和7年、四国の石鎚山。捨て子だった13歳の「おりん」は、自分を拾って育ててくれた「ばば」と山で生活していた。ある日、「ばば」が死に、「おりん」は一人ぼっちになる。そこへやって来た人買いの男に騙されて、彼女は瀬戸内海・御手洗島の女郎屋に売られてしまう。

 店での「おりん」は、食事を摂らず、誰に対しても反抗し、女将や女郎たちを容赦なく殴り、追い払ってしまう。そこへ、町の雑貨屋の娘がやってきて「自分は生まれつき足が不自由だが、働けば可愛がられて楽しく暮らせる」と諭す。さらに「働かないと毎日、借金に利子、食い扶持が付いて、身動きできないようになる」と店の仕組みを教える。「おりん」は自分が置かれている状況を悟り、怒濤のごとく働き始める。

 その後、「おりん」は、「おちょろ舟」という、「風待ち」で沖合に停泊している船の乗務員の相手をする女郎たちを乗せた舟の「ちょろ押し」(漕ぎ手)に、自ら志願する。島に住む漁師の少年に漕ぎ方を教えてもらった彼女は、腕力の強さもあって、たちまち島一番の「ちょろ押し」になる。

 しかし、そんな「おりん」に、ついに初潮がおとずれる。女郎にならなくてはいけないときが来てしまったのだ。彼女は激しく抵抗するが、男衆による凄まじい折檻を受け、諦念と覚悟からか、長かった髪を自らバサバサと切り落とし、異様ないで立ちで、ひとの何倍も客をとるようになる。

 一方で、「おりん」は、この島から逃げ出すことを願っていた。ある日、彼女が海辺に行くと、小舟の傍らに男(岡田英次)が座っている。聞くと、彼は牧師だという。牧師なら自分を助けてほしい、島から出してほしいと「おりん」は懇願する。だが、いま逃げても、すぐに連れ戻される、まとまった金ができたら迎えにくるから、それまで死ぬんじゃない、と牧師に説得されるも、「おりん」の悲しみは深まっていくばかりだ。

 昭和10年のある朝、女将に起こされた「おりん」は、外が暗いので、「今日は時化(しけ)か?」とたずねる。女将は呆れて「よう晴れとる、ええ天気じゃ」と笑う。度を越して客をとり過ぎた「おりん」は、「業病」に罹り、右目は完全に失明、左目は近くがぼんやりしか見えなくなってしまう。本当なら年季が明けるはずだったが、治療費が嵩んでしまい、さらにそれが延びてしまう。

 この年の4月8日、「おりん」が二階の部屋で髪を梳いていると、外から「今日はお釈迦はんの日じゃ、お寺に甘茶をもらいに行きたくないか」と呼ぶ声がする。はじめは断るものも、ふいに店を飛び出した彼女は、海に向かう。声の主は、牧師だった。彼は「おりん」を舟に乗せて島を抜け出す。そして彼女に金を渡し、四国へ行ってお遍路になり、札所をまわるように導くのだった。

 およそ3年の間に、少女「おりん」が被らなければならなかった苛酷な運命は、こうして筋書きだけを描出しただけでも、あまりに残酷に感じられるだろう。加えて、原田美枝子の激烈な演技と、増村保造による容赦のない演出によって描かれているので、見たことのない人は、かなりしんどい映画だと思うかもしれない。

 だが、『大地の子守歌』は、遍路の装束をまとった「おりん」が寺の石段に屈んで合掌する静かな場面から始まる。次の札所に向かう「おりん」を、地元の老いた女性(田中絹代)が待っていて、彼女におむすびを与え、胸元や背嚢に鈴(れい)を付けてやる。「おりん」は軽く跳んでみせて鈴を鳴らし、「きれいな音じゃ」と喜び、「ありがとう!」と深々と頭を下げ、その場を歩み去る。老女は「なんちゅう、かわいいお遍路さんじゃろ」と、彼女の後姿に手を合わせる。

 このように、遍路姿の「おりん」が、札所を巡る山道を行くカットが、激しい場面の間に、ところどころ挿入される。つまり、「ばば」が死に、人買いに売られ、女郎になり、盲目になって、島を抜け出すまでの歳月を、遍路になった「おりん」が、回想しているという作りになっており、見る者の心を穏やかに鎮めるのだ。この構成について、山根貞男は次のように述べている。

「原田美枝子がドラマの部分でどれほど荒々しいアクションの連続をくりひろげるかは、あらためて記すまでもなかろう。そのことが巡礼シーンによっていっそう際立つのであるが、原田美枝子がケダモノのごとき猛々しさから一変、盲目のもたらす静謐のなか、安らかな表情でお遍路さんになってゆっくり歩く姿は、アクションの激烈さを客観化するとともに、もう一つの作用をも行なうと思われる。慰藉作用とでも呼ぶことができようか」(『増村保造 意志としてのエロス』)

 私は、この作品を何度も見直しながら、最終的に「おりん」は救われたのだろうか、そうであるなら、誰(何)に救われたのだろうか、それとも救われないまま映画は終わったのだろうか、ということを繰り返し考えている。そういう意味では、山根がいうように、荒々しい場面と安らかな場面が交錯する構成が及ぼす作用は、観客を、というより、「おりん」自身を慰藉する効果をもたらしている。つまり、映画そのものによって、「おりん」は救われるということになる。

 ラスト近く、草むらで野宿する彼女が、夢なのか回想なのか、炎に囲まれた中で、これまでの場面がフラッシュバックし、大地から「ばば」や牧師、他にも幾つもの声で「おりん、おりん」という大合唱がとどろき、彼女のまわりに響きわたる。山根は、こうも書く。

「明らかにこの作品は全体として一人の少女に対する鎮魂曲になっている。(中略)鎮魂である以上に、鼓舞や称賛といったものを見るべきかもしれない。狂おしく果敢に生きるヒロインを描く作品それ自体が、よく闘い抜いた者への称賛とさらなる励ましの声を熱く送っているのである」(同前書)

 山根の映画を見る目は的確で深い。そのことを踏まえた上でなお、物語の中で、「おりん」が救われるとしたら、それは誰(何)によってなのか、ということを思う。たとえ救われなくても、彼女の苦しみを、本当に理解することはできないにしろ、それを見つめ、共にする者はいたのだろうか、いなかったのだろうか。

 まず、「ばば」について。彼女は死者として、折に触れて「自分はずっとおまえの傍にいる、他人を信用するな、自分だけを信じろ」と「おりん」にささやき続ける。雑貨屋の娘は、島で生きていく術を教えたり、ときには説教をして見守る。また、舟の漕ぎ方を教えてくれた漁師の少年に対して、「おりん」は恋心を抱き、女郎になる前に、自分の体を彼に抱かせようとする。

 この三者はしかし、彼女の苦しみを分かち合うことはない。「ばば」は「山に戻ってこい」と無理なことをささやき、「おりん」を絶望させる。雑貨屋の娘は「足が不自由でも、働けば楽しく暮らせる」と、自身の家業と女郎屋との差異を無化して、苛酷な境遇を「おりん」に受け入れさせようとする。漁師の少年が、折檻による傷跡だらけの「おりん」に、「元気を出せ、ワシも島を出て石切り場で働いて、金を貯めて大きな舟を買うんじゃ」と励ますのだが、男と女の置かれた状況の決定的な違いに対する無理解が、彼女を傷つける。

 物語上、実質的に彼女を救い出すのは、牧師である。そして、「おりん」はお遍路になる。だとすると、彼女を救いに導くのは、キリスト教や仏教といった宗教なのだろうか。確かに、この映画の舞台は、仏教色の強い空間の中にある。「おりん」の住んでいた山中の家にも女郎屋にも、金剛夜叉明王なのか、仏画が飾られているし、遍路というのが、まさに仏教の行いである。遍路笠に書かれた「同行二人」は、巡礼者にはいつも弘法大師が共にいてくれることを意味するという。

 だが、宗教よりも、「おりん」が信じ、親しんでいたのは、自然であろう。山では川で水を汲み、ウサギなどを狩猟していた彼女は、自然の中で自由に生きることを望んでいた。島に行けば魚の刺身を食えるし、きれいな着物を着られるという人買いの誘惑を拒むのは、女郎にさせられることを警戒してのことなのは勿論、自然から切り離されることをも嫌ったからではないか。その後、島に行けば毎日きれいな海が見られるという誘い文句には、一転してあっさり応じてしまうことが、自然への愛を、むしろ物語っているようにも思われる。

 自然については、もうひとつ気になることがある。山の暮らしでは、捕まえたウサギを山奥に何匹も隠してあると自慢していた「おりん」だが、漁師の少年が獲ってきた魚を見るや、網の中で苦しそうにしている姿に自分を重ねて、逃がしてやれと懇願するのである。魚も自分も、同じように人間に命を奪われてゆく。彼女は、ここに至って、自然との共苦を思ったのである。

 「ばば」を失った「おりん」は、あまりに苛酷な状況に投げ込まれ、誰も信用せず、己の力だけを頼りに生きなければならなかった。「おりん」を贔屓にしていた資産家の老人が、彼女を受け出したいと言っても、自分は囲い者になる気はない、もっと大きな欲があると断る。それは「ひとりで充分という欲」だという。だが、その欲を実現するために自らを酷使した結果、彼女は失明してしまう。

 こうして書きつらねてはみたものの、正直、結論は出ない。映画そのものが彼女を慰藉しているという山根貞男の論になぞらえるなら、「おりん」に共苦しているのは、彼女自身なのではないだろうか、というのが、いまの私の考えである。お遍路になった「おりん」は、地獄の3年間を回想しているというより、当時の「おりん」を見つめ、一緒に歩いているように、私には思われる。なぜなら、彼女の本当の苦しみを知っているのは、「おりん」だけだからだ。

 これは、対他者への共苦や、利他の思想を否定するものではない。同時に、自助や自己責任といった他者を切り捨てる冷酷さを肯定するものでもない。「おりん」は、魚(自然)に共苦を示し、牧師(他者)には感謝の情を全身で表している。お遍路の「おりん」が、過去の彼女自身と歩いているのは、宗教と自然のあわいにある道なのかもしれない。冒頭で老女のくれた鈴が、「おりん」と行を共にするように、澄んだ音を鳴らしている。



〈使用参考文献〉
・山根貞男著『増村保造 意志としてのエロス』(筑摩書房、1992年)
・遠山義孝著『ショーペンハウアー』(清水書院、1986年)

『大地の子守歌』予告編 https://youtu.be/_W8V8SjQgQs?si=1jOgXvQFjb2iQdr_


 

玉城入野(たまきいりの)
1968年東京都日野市生まれ。著書『フィクションの表土をさらって』(洪水企画)。詩歌・文芸出版社「いりの舎」代表。
 
Back to Top